紙とペン

科学史関連の読書記録、活動記録です。

ナショナルとユニバーサルの間で

●”Between the National and the Universal :   National History Networks in Latin America in the Nineteenth and Twentieth Centuries”  by Regina Horta Duarte, Isis 104(2013):777-786

http://www.jstor.org/stable/10.1086/674944

 

概要(Abstract)

このエッセイでは19世紀から20世紀を通じての博物学に関する、現在のラテンアメリカの歴史論文を精査してみる。博物学ネットワーク・サイエンスであり、多様な人々と研究の中心地の間の接続や情報伝達によって織りなされていて、複雑な政治的・経済的変革を背景としている。ラテンアメリカ博物学者は、ナショナル・サイエンスの推進とユニバーサル・サイエンスへの参加との間の緊張関係を切り抜けてきた。ナショナル・サイエンスとユニバーサル・サイエンスの間のこれらの緊張関係は、ラテンアメリカについての歴史論文にも反映されてきた。1980年代から、ラテンアメリカ諸国の能動的な役割を認識した物語が、ラテンアメリカの科学史が一新される中でより目立つようになってきた。しかし、これらのアプローチのナショナリスト的な偏向のせいで、ラテンアメリカの歴史編集は周縁へ追いやられたままである。ネットワークでつながっているという博物学性質と、博物学におけるラテンアメリカの能動的な役割のおかげで、ラテンアメリカは歴史編集で孤立させられなくなり、世界史の中に位置づけられる機会を得るのだ。

 

《以下は要約です。》

筆者は導入として、Georges Cuvier博物学における重大な発見だと分析した、メガテリウムの化石に関するエピソードを紹介し、そのもう一つの側面について話を進める。この化石はブエノスアイレス近くのルハンという地で発見され、現地の修道士がその発掘やマドリッドまでの輸送を取り仕切ったのであったが、著名なCuvier はこの化石を繰り返しパラグアイの動物と呼んで、パラグアイとアルゼンチンの混同を露呈しまった。筆者はこれを、ラテンアメリカがヨーロッパと比して第二の地位におとしめられているエピソードとして紹介する。

 

以下では、1980年代から1990年代のラテンアメリカでの歴史論文の潮流を分析することから始め、その中でも特に取り上げられたテーマである、調査隊の遠征、輸送技術の革新がもたらした潜在的利益、書物の流通、協会や研究所の設立、科学会議の組織化、博物学者の伝記の編集に注目し、ラテンアメリカ博物学がヨーロッパの博物学と地球規模での博物学の発展において果たした役割、ひいては、博物学という学問がネットワーク・サイエンスとして発展していく過程を描き出す。

 

1940年代に起こった伝播主義の見方では、ヨーロッパが主体的な歴史の作り手とみなされ、ラテンアメリカはそれより劣った辺境の地位におとしめられていた。ラテンアメリカ諸国が独裁的な体制を打破した1980年代から1990年代には、民主主義の回復と国家再建の機運の中で、愛国的なナショナル・サイエンスの見方が力を持ったが、それもやがて限界を見せた。スペイン語やポルトガル語で書かれることが多かった、という言語の問題も相まって、ラテンアメリカは地球規模の学問のコミュニティーから孤立してしまう。しかし、Sujit Sivasundaram が論じたように、「科学と帝国」「科学と国民」という対概念で歴史をとらえることの限界が認識され、近年では、ラテンアメリカが多様な諸国民、モノ、考え、知識の出会いの産物であるという捉え方がなされ、「インペリアル・サイエンス」や「ナショナル・サイエンス」といった捉え方から、「クレオール・サイエンスcreole science」といった見方へと移りつつある。ここで注意しなくてはならないのは、パズルのピースをぴったりとはめ込むような完全な説明をするのではなく、偶発性、異種混合、相互作用と分裂、接続と分離を説明しなくてはならないということだ。

ここで、冒頭に紹介したメガトリウムの例を振り返る。新しい科学史の見方によれば、ヨーロッパの博物学におけるこの化石の役割を分析するだけではなく、「この化石がなぜ、どのようにしてここにあるのか」をも考察しなくてはならないのだ。

 

こうした新しい科学史の見方を確認したうえで、博物学の発展においてラテンアメリカが果たした役割を見ていく。

 

1720年から1930年にかけて、Stuart McCook ”the neo-Columbian exchange”と呼んだ文脈の中で調査隊の遠征が行われた。実験対象やイノベーションや経済的な目的の環境順応のために動植物の輸送が行われたが、彼らは単に帝国主義の手先であったという見方は疑わしいもので、現地人との相互交流もあったと考えられる。

蒸気船や鉄道の普及によって、採集活動を活気づけ、移動や、物資、採集物、生きた動植物の輸送が容易になった。

また、これに伴う、印刷物、絵、手書き文書、写真といった情報伝達手段の変革が博物学のネットワークを変えた。調査隊の遠征のことを人々が知るようになり、ラテンアメリカの植物相、動物相の体系化も図られた。

これらの新しい輸送手段、情報伝達手段のおかげで、ラテンアメリカの研究所が地球規模での知の変革に参加することが出来るようになった。

そして、ラテンアメリカ博物学者が協会や組織化された会議をつくった。例として、Charles Darwin がメンバーであったSociedad Zoologica Argentina が政府の保護のもとに設立されたことに触れる。

また、ラテンアメリカに滞在、移住して研究に励んだ外国人の例として、カリブの動物相の分類を行ったJohannes Christoph Gundlach や、ブラジルで観察を行ったFritz Muller を挙げ、一方で、ラテンアメリカ生まれの博物学者にも、科学のキャリアが新しく開かれたことを述べる。

そして最後に、メキシコ人のAlfonso Herreraに言及する。彼は生物学的、進化論的な展示をした博物館のモデルを提案し、フランス語で書いた自著をヨーロッパで出版したり、多くの国の科学者と文通をしたりと、universalist の見方を持っていた。著者は、彼の活動に鼓舞されて、ラテンアメリカを孤立から引き出し、世界史の舞台に位置付けるという精力的な挑戦を、彼と共有しているという。