紙とペン

科学史関連の読書記録、活動記録です。

Neuroscience, Neurohistory, and the History of Science: A Tale of Two Brain Images by Steve Fuller

Neuroscience, Neurohistory, and the History of Science:

A Tale of Two Brain Images

by Steve Fuller

(ISIS, Vol. 105, No. 1 (March 2014), pp.100-109)

 

http://www.jstor.org/stable/10.1086/675552

 

《要約》

David Eagleman が観察したところによると、脳のとらえ方には次の二つがある。肉体の執行制御センターとみなすローカル・ガバナーの見方。それから、現実の全ての点からのシグナルをエネルギーや情報の共通の帯域幅に変換する特権的な器官とみなす、ユニバーサル・トランスデューサーの見方である。

Daniel Smail は、脅迫的な仮囲いCompulsive hoarding という現代の現象を説明しようとする。そのあとのStephen Casper、Max Stadler、Roger Cooter は、その論文に対して異なった批判を加える。Casper は1850年代から1950年代にかけての、失敗に終わった試みについて調べ、「文明」の組み込み科学に過ぎない神経科学について述べる。Stadlerはもっと最近の過去について、神経科学と人工頭脳の境界面に焦点を当てて、人工人間という空想の、文化的根源を思い起こす。最後にCooterは、彼が科学史家の自己理解のための神経文化の驚くべき結果とみなしているものについて扱う。

ニューロヒストリーの可能性に対する彼らの懸念は、深い歴史的洞察の源としての脳に注目することが、ホモ・サピエンスに人間性を認めない「ネオ・リベラル」の考えと共謀した、陰険な「生物学的な」考え方に降伏することだ、ということを前提にしている。この観点に立つと、脳は、そのような考えが厳しく統制しようとする肉体に接続されている。確かに、この議論は歴史的決定論でなされたものではなく、むしろ、「perfect storm」や、フランス人が言うところの、多くの異なった部分的にしか関係しない力のconjonctureでなされたものである。私自身の見方では、この分析が細部においてどれほど正確でも、それは神経科学のより大きな歴史的意義の空売りに終わってしまう。

 

我々がジョージ・サートンの元来のプロジェクトとしての科学史に従事していると主張する限りにおいては、前兆としての科学の歴史に反対するとき、近年の神経科学の繁栄は認識論的な抱負によっても説明されるべきだ。この論考の著者たちは、「脳がすべての中心とみなされたとき、どの世界観が許可されるか」という疑問が、様々な陰険な関心によってとらえられる簡単さを強調しているが、一方で、私は、そのような見方を知的に強調することは、科学的知識や権威の展開と関係した、否定できないいさかいにもっとテコ入れすることを認めるのだと思う。確かに、歴史家はいつも「批判的」であるが、異なった効果をもたらす。ひとつは追憶の考え方と、注意を促す話であり、もうひとつは、潜在的なものから力を得ることである。

トーマス・クーンの遺産を考える文脈においては、私は科学哲学者の「過小労働」の傾向を嘆いてきた。神経科学の現状は違っている。というのは、現状の研究の最前線を正当化できるような、公式に認められた歴史がないからである。この点で、神経科学は、30年以上前に私が大学院生であった時の認知科学に似ている。今日の批判家が、神経科学やそこから派生した「ニューロ・マーケティング」、そして「ニューロ・ヒストリー」を、脳スキャナーを用いて哲学的に考えることに過ぎないとしているように、認知科学はコンピューターを用いて哲学的に考えることに過ぎない、と鑑定士たちはいぶかしがった。問題は、科学が知識の一形態として自己正当化する時に用いられる物話を組み立てる責任を、歴史家が共有しようとするか、ということである。Smailと私はこの課題に参加するうえで何の問題もないが、Casper、Stadler、Cooterはそうでないように思われる。

帯域幅で知識を説明しようとするのはまれな認識論者であるが、Eaglemanの「変換者としての脳」説は、哲学者にとってはもっともらしく思われる。脳は自己超越への欲求から離れないということは、意識を広げる、あるいは代替的ない意識の状態を達成する、外科的で薬を用いる方法を用いる際の、科学的な関心によって示されている。人体のどの部分が認知などといった芸当を許すのであろうか。

Smailの神経史の斬新な特徴は、人間と非人間との境界の交渉について開かれているということである。また、彼のアプローチは生物学とテクノロジーの存在論的な連続性にたいして示唆を与えるのだ。

 

 

ナショナルとユニバーサルの間で

●”Between the National and the Universal :   National History Networks in Latin America in the Nineteenth and Twentieth Centuries”  by Regina Horta Duarte, Isis 104(2013):777-786

http://www.jstor.org/stable/10.1086/674944

 

概要(Abstract)

このエッセイでは19世紀から20世紀を通じての博物学に関する、現在のラテンアメリカの歴史論文を精査してみる。博物学ネットワーク・サイエンスであり、多様な人々と研究の中心地の間の接続や情報伝達によって織りなされていて、複雑な政治的・経済的変革を背景としている。ラテンアメリカ博物学者は、ナショナル・サイエンスの推進とユニバーサル・サイエンスへの参加との間の緊張関係を切り抜けてきた。ナショナル・サイエンスとユニバーサル・サイエンスの間のこれらの緊張関係は、ラテンアメリカについての歴史論文にも反映されてきた。1980年代から、ラテンアメリカ諸国の能動的な役割を認識した物語が、ラテンアメリカの科学史が一新される中でより目立つようになってきた。しかし、これらのアプローチのナショナリスト的な偏向のせいで、ラテンアメリカの歴史編集は周縁へ追いやられたままである。ネットワークでつながっているという博物学性質と、博物学におけるラテンアメリカの能動的な役割のおかげで、ラテンアメリカは歴史編集で孤立させられなくなり、世界史の中に位置づけられる機会を得るのだ。

 

《以下は要約です。》

筆者は導入として、Georges Cuvier博物学における重大な発見だと分析した、メガテリウムの化石に関するエピソードを紹介し、そのもう一つの側面について話を進める。この化石はブエノスアイレス近くのルハンという地で発見され、現地の修道士がその発掘やマドリッドまでの輸送を取り仕切ったのであったが、著名なCuvier はこの化石を繰り返しパラグアイの動物と呼んで、パラグアイとアルゼンチンの混同を露呈しまった。筆者はこれを、ラテンアメリカがヨーロッパと比して第二の地位におとしめられているエピソードとして紹介する。

 

以下では、1980年代から1990年代のラテンアメリカでの歴史論文の潮流を分析することから始め、その中でも特に取り上げられたテーマである、調査隊の遠征、輸送技術の革新がもたらした潜在的利益、書物の流通、協会や研究所の設立、科学会議の組織化、博物学者の伝記の編集に注目し、ラテンアメリカ博物学がヨーロッパの博物学と地球規模での博物学の発展において果たした役割、ひいては、博物学という学問がネットワーク・サイエンスとして発展していく過程を描き出す。

 

1940年代に起こった伝播主義の見方では、ヨーロッパが主体的な歴史の作り手とみなされ、ラテンアメリカはそれより劣った辺境の地位におとしめられていた。ラテンアメリカ諸国が独裁的な体制を打破した1980年代から1990年代には、民主主義の回復と国家再建の機運の中で、愛国的なナショナル・サイエンスの見方が力を持ったが、それもやがて限界を見せた。スペイン語やポルトガル語で書かれることが多かった、という言語の問題も相まって、ラテンアメリカは地球規模の学問のコミュニティーから孤立してしまう。しかし、Sujit Sivasundaram が論じたように、「科学と帝国」「科学と国民」という対概念で歴史をとらえることの限界が認識され、近年では、ラテンアメリカが多様な諸国民、モノ、考え、知識の出会いの産物であるという捉え方がなされ、「インペリアル・サイエンス」や「ナショナル・サイエンス」といった捉え方から、「クレオール・サイエンスcreole science」といった見方へと移りつつある。ここで注意しなくてはならないのは、パズルのピースをぴったりとはめ込むような完全な説明をするのではなく、偶発性、異種混合、相互作用と分裂、接続と分離を説明しなくてはならないということだ。

ここで、冒頭に紹介したメガトリウムの例を振り返る。新しい科学史の見方によれば、ヨーロッパの博物学におけるこの化石の役割を分析するだけではなく、「この化石がなぜ、どのようにしてここにあるのか」をも考察しなくてはならないのだ。

 

こうした新しい科学史の見方を確認したうえで、博物学の発展においてラテンアメリカが果たした役割を見ていく。

 

1720年から1930年にかけて、Stuart McCook ”the neo-Columbian exchange”と呼んだ文脈の中で調査隊の遠征が行われた。実験対象やイノベーションや経済的な目的の環境順応のために動植物の輸送が行われたが、彼らは単に帝国主義の手先であったという見方は疑わしいもので、現地人との相互交流もあったと考えられる。

蒸気船や鉄道の普及によって、採集活動を活気づけ、移動や、物資、採集物、生きた動植物の輸送が容易になった。

また、これに伴う、印刷物、絵、手書き文書、写真といった情報伝達手段の変革が博物学のネットワークを変えた。調査隊の遠征のことを人々が知るようになり、ラテンアメリカの植物相、動物相の体系化も図られた。

これらの新しい輸送手段、情報伝達手段のおかげで、ラテンアメリカの研究所が地球規模での知の変革に参加することが出来るようになった。

そして、ラテンアメリカ博物学者が協会や組織化された会議をつくった。例として、Charles Darwin がメンバーであったSociedad Zoologica Argentina が政府の保護のもとに設立されたことに触れる。

また、ラテンアメリカに滞在、移住して研究に励んだ外国人の例として、カリブの動物相の分類を行ったJohannes Christoph Gundlach や、ブラジルで観察を行ったFritz Muller を挙げ、一方で、ラテンアメリカ生まれの博物学者にも、科学のキャリアが新しく開かれたことを述べる。

そして最後に、メキシコ人のAlfonso Herreraに言及する。彼は生物学的、進化論的な展示をした博物館のモデルを提案し、フランス語で書いた自著をヨーロッパで出版したり、多くの国の科学者と文通をしたりと、universalist の見方を持っていた。著者は、彼の活動に鼓舞されて、ラテンアメリカを孤立から引き出し、世界史の舞台に位置付けるという精力的な挑戦を、彼と共有しているという。